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思い出話〜死産児の分娩〜 2006:10:23:12:50:16

[ お産 ]

長男・たっけを妊娠する前の、一つの儚い命を授かった経験については少し触れていますが、こちらではその当時の思い出話を添えて、流産・死産についても考えたいと思います。

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「いずみさん、あのね、いい。ちょっと気になるものが写ってるんだけど。」

妊娠4ヶ月目の健診で、エコーを見ながら先生がそう言った。表情は、さして深刻そうではない。

「ちょっとね〜…赤ちゃんの首のところに…なんか、袋のようなものが写ってるのね。こんな感じなんだけど…」

エコーの写真に、直接ペンで書いて見せて説明を始める。赤ちゃんの首の右側に、赤ちゃんの頭より一回り小さい袋のようなものが出来、水が溜まっているらしいと言うことだ。

「まあでもね、生存は可能だから。僕も色んな赤ちゃん見てきたよ。お腹の脇から腸がはみ出ちゃっていた子とか。その子も妊娠中から発見出来たから、すぐに公立病院で対応出来て、今も元気だよ。とりあえず、紹介状書くから、公立病院で診てもらってきてね。」

ちょっと心配だけど、今の医療は発達してるし、生まれてくる姿はどうであれ、命に別状がなければ…。
多少心配ながらも、紹介状を受け取り、数日後、公立病院へ診察を受けに行くことになった。

当日は、心配し、会社へ連絡して午前中休みをとったダンナと母に付き添われての受診。大きな病院での診察は初めてだったので、その混雑にまず驚いた。紹介状があると、スムーズに受付が進むもんだとばかり思い込んでいたが、1時間、2時間とあっという間に時間が過ぎていく。

やっと、自分の番が回ってきて、女性の先生にエコーで赤ちゃんをもう一度確認してもらう。

すると、先生の顔色が変わり、エコーの画面を何枚も何枚もプリントする。

「いずみさん、今日はご主人いらしてる?…そう、なら呼んで来てくれる?」

何だろうと思いつつ、待合室で暇そうにしているダンナを呼びに行った。もう一度、3人でエコーで画面の中の元気な赤ちゃんを見る。

「ここに、頭大の腫れ物があるの、分かりますね。。これは、ちょっと助かる確率は殆どないケースですね。もし、幸い無事に生まれてきても大きな障害が残ることは免れないです。いずれ、妊娠継続は難しいと思います。
原因として考えられるのは、受精時の染色体の異常か、妊娠初期のウィルス感染……例えば、お母さんが風邪を引いたかどうか、ですね。ただ、今どちらかは判断は出来ませんけど。
私としては、ここで妊娠を中断することをお勧めします…けど、決めるのはお二人です。…どうしますか。」

一体何を言われたのか、その時は全く理解できなかった。先生が先に席を外し、自分のデスクに戻ったところで、分からないけれど涙が出てきた。
まだ胎動は感じないけれど、目の前の画面の中で、元気に手足をバタバタと動かしていた私の赤ちゃんが、死ぬかもしれない??どういうことだろう??と。

「1週間後、また来て下さい。その日までに決めましょう。」

最後にそう言われた。その時には、やっと頭の中で突きつけられた現実を飲み込み、もう涙が止まらなくなっていた。ダンナに支えられながら、待合室で待つ母のもとへ行く。

帰りの車の中では、殆ど誰も喋らなかった。

私を実家へ置くと、ダンナは母に
「今日から、しばらくこちらでお世話になっても良いですか。」
と、言い残し、そのまま出勤(私はこの当時、籍を入れただけで、まだダンナと一緒に暮らし始めてはいなかった)。
私は自分の部屋へ戻ると、アルバムに貼られた今までのエコー写真と、自分でつけたそれぞれへのコメントを一通り眺めた。自然と微笑んでる自分がいた。
でも、現実は変わらない。一週間後、我々の出す結論によっては、この子は死んでしまう。そう思えば思うほど、現実逃避は止まらなくなりそうだった。

夕方5時頃、ダンナが荷物を持って実家へ来た。普段なら、勤務を終えて帰ってくると10時くらいなのに、いつもより早い。
私はそのとき、自分の部屋に電気もつけずにアルバムをまだ眺めていた。

「ダメだったよ、仕事にならなくて。会社の人に、しばらくこの時間で帰って、お前のそばにいてやれって言われてきちゃった。」

ダンナはそう言ったきり、無言になった。真っ暗な部屋で何も言わずしばらく二人で泣いた。ひとしきり泣いた後、最初にダンナが口を開いた。

「どうしよう。あんなに元気に動いてたのにな。どうしたらいいと思う?」

「分からない。分からないよ。何がこの子のためなんだろう。」

結論は出なかった。周りの人はみな、無事に生まれたとして、障害を抱えて生まれてくると苦労は一生ついてくるし、この子だって苦しむんだから…と言う。
そう言われるとそうなのかなぁ、とも思えてくる。このまま生まれてこないほうが、この子のためなのかもしれない。妊娠を継続するのは親のエゴなのかも、と。

悩んでいたせいか、数日後、体調を少し崩した。身体が冷たくて、何ともいえないダルさが襲った。まだ続いていたつわりが、体調不良のせいで気にならなくなっていた。

約束の日の前夜、二人の間に結論が出た。

「この先どうなるかは、分からない。でも、産もう。障害を抱えてても、この子はこの子だ。大切に育ててあげよう。守ってあげよう。」――と。

病院へ行き、二人で診察に臨んだ。先生は二人の結論を聞くより先に、まずエコーで赤ちゃんの様子を見ることにしましょう、と言った。

「…心臓、止まってますね。……。赤ちゃん、もう亡くなってしまったみたいです。ちょっと、いつ亡くなったのかははっきりとは分からないけど、ここ2〜3日中でしょう。」

数日前のダルさは、もしかしたらこのためだったのかもしれない。

赤ちゃんは既に、亡くなっていた。私たちが結論を出す前に。
もしかしたら、妊娠を継続すべきか悩んでいた私たちのために、
「もう悩まないで」と、自ら旅立っていったのだろうか。そうとさえ思えた。

胎児の亡骸をこのままにしておくと、排泄物などで母親の血液中に害になるものが流れ、母体の命に関わると言われ、その日の午後から入院・分娩による胎児娩出ということになった。
丁度5ヶ月目に突入していたので、妊娠初期の中絶と同じような処置が不可能な上、赤ちゃんに生まれ出ようとする力がないため、薬で人工的に陣痛をつけ、「お産」をすることになったのだ。

夜8時頃、お腹が10分間隔で痛み始め、ナースコールをする。
歩いて、人のいない夜の陣痛室へ案内された。破水や出血があったら知らせるように、と言われ、そこで痛みに耐える。

その間に、もう一人隣の陣痛室へ誰かが入った様子があった。間もなくして、さらにその誰かは別の部屋へ移動し、苦しみの声をあげている。それを聞きながら、自分も陣痛に耐えた。きっと、“本当のお産”で、新しい命を生み出そうとしているのだ!

1時間ほどした頃、その誰かのいきむ声が治まって、代わりに元気な産声が聞こえてきた。生まれたのだ。拍手が起こった。
私も、自分のことのように嬉しくて、胸がドキドキしていた。私も頑張らなくちゃ、そんなことまで考えていた。

また人気がなくなった頃に、痛みが便通のもののようにも思えて、トイレへ移動。そこでついに出血とともに破水をした。ナースコールで看護婦さんを呼ぶ。
誰も待機していない分娩台に案内され、しばらく腰のマッサージをしてくれた。とても気持ちがよかった。

「痛みが5分間隔になったら、また呼んで下さいね。頑張ってね。」

…そのまま誰も居ない分娩室で一人、耐えることになった。
時計を見ると、午前2時頃だったと思う。痛みが治まってはうとうととしながら、10〜15分間隔に痛みで目が覚め、10分ほど痛みに耐える。その繰り返しだった。そのまま、ただ時間だけが過ぎていった。

朝の5時半ころには、陣痛はかなり微弱なものになっていった。…どうなってしまうんだろう、と、逆に興奮して眠れなくなる。
そこへ、分娩室に看護婦さんが入ってきて、こう言った。

「どうですか?様子は……。そう、陣痛止まっちゃったの…。今、ご主人来てますよ。…じゃあ、歩いて部屋の外、出てみましょうか。」

――ダンナも、一晩中眠れず、いても立ってもいられなくて朝4時に布団から出て来てしまったという。昨晩ダンナが帰ってから、今にいたるまでを話した。
偶然、壁越しだったけど赤ちゃん誕生の瞬間に立ち会った感動についても話した。

結局“私の陣痛”はそのまま消え去るように終わってしまい、病室へ戻ることになった。そして、9時に先生の診察。。

赤ちゃんはすぐそこまで出てきていると言うことで、その診察のときに娩出することになった。やはり、赤ちゃん自身に生まれ出ようとする力がないために、少し困難だった。

9時10分頃、産声を上げることない大切な我が子の亡骸は、私の身体から離れていった。

先生は、私にはどうしても見せるわけにはいかないが、とダンナにだけ、桐の箱に入れられたその小さな小さな身体を見せた。

身長16センチ。顔には小さな布がかけられていたが、その布の隙間から、今回この子の運命を決めてしまった頭大の腫れ物が覗いていたという。
肌は透き通るような薄ピンク色で、手は、お人形のように、指と指がまだくっついていたそうだ。

5ヶ月目より、「死産届」が必要とのことで、翌日ダンナが届出に行った。そして退院。

ダンナの実家のお墓に入れてもらうことになった。
私は、身体を休めることが大事と、お寺での供養には行かせてもらえなかった。入院が決まってから一度も流すことのなかった涙が、途端に止まらなくなった。
ホントに言葉どおり止まらなかった。気付いたら、鼻が詰まって呼吸できなくなっていた。目も腫れ上がって開かなかった。多分こんなに泣いたのは生まれて初めてだったかもしれない。

思えば、親戚や学校の先生を除き、身近な人を失うのはこれが初めてだった。
周りにも、流産・死産を経験した人がいなかった。
だから、始めはどういうことなのか、理解できなかったし、その後のショックも大きかったのだと思う。

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すいません、ずいぶん長くなってしまいました。
不覚にも、当時のことを思い出してまた涙しながら書いてました。ハタから見たら変な光景ですね…(^_^;)
でも私たちはこの子と過ごしたほんの短い間、色んな事を学んだと思います。そして、結果的に元気な産声を聞くことが出来ませんでしたが、妊娠を継続するという決断をしたことを後悔していません。

あえて後悔をしていること・心残りなことがあるとしたら、先生のご意見だったとはいえ、最後に我が子の姿をこの目で確かめることができなかったことでしょうか。
抱きしめることはおろか、手で触れることさえもできなかった。そのことが今でも悔やまれてなりません。
例え、どんな姿であっても会いたかった…そう思っています。

文中にも出てきますが、流産・奇形の多くは、受精時の染色体の異常や、初期のウィルス感染などがもとで、赤ちゃんの側に原因があることが主だそうです。
時には、今回の私の例のように目に見える奇形がない場合、妊婦さんが

「私が大事にしなかったから、、」

と、自分自身に原因を感じてしまうこともあるかもしれません。
しかし、これも逆らえない自然の厳しさでもありますので、必要以上にご自分を責めないでください。

染色体異常というのも、“運”とでもいいましょうか、偶然そうなるもので、一度流産を経験したから、必ずしも次も同じ事が続くわけではありませんので、万が一そういう経験をしてしまっても、次こそは可愛い赤ちゃんを、その子の分まで抱きしめてあげて欲しいと思います。

また、死産等を経験した方が身近にいるならば、その時の話を聞いてあげることが一番傷が癒やされるといいます。
亡くなってしまった子にとっても、忘れないであげることが一番の供養ともいいます。
1年に一度でも、なにげな〜く、でいいから、思い出してあげてください。

(2002.11.21 記)

関連:『誕生死』…三省堂 流産死産新生児死で子をなくした親の会・著

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 '06.10.23(月) 12:50
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